SF国境線(10) 「利己的な遺伝子」

このエントリは実は今年の1月に書いたものですが、書いてみたのはいいけれどどうにも気に入らなくてずっと非公開にしていたものです。気に入らない一番の理由は、たぶん松岡正剛氏の書評を読んでしまったからで、こんな的確な(本当に1つもポイントをはずさないですね)書評があるならもう僕が何を書いても無駄なような気がして、それは今でもそう思うのだけれど、ま、それでも自分なりに書いたのだからいいか、ということにして、ちょっとだけ修正を入れて公開することにします。(要は「SF的生活」の更新が滞り気味なので、没ネタのリサイクルを試みたわけ)

読んでみてなんやようわからん、と思った人は千夜千冊の方で補完してください。



今回は超有名どころ、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」の話を。まえがきに「この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい」とあるので、ここで紹介するのにはおあつらえでしょう。

生物系のくせに、と言われてしまいそうだが、実はこの本を読むのは今回が初めてなのでした。とはいえ利己的遺伝子についての噛み砕いたような概説書を何冊か読んではいて、そのアウトラインはある程度理解しているつもりでいたのだけれど、実際に読んでみると、いやはや、こんなことが書いてある本だったとは、というオドロキの連続でした。やはりちゃんと知ろうと思うならオリジナルに触れなければ駄目ですね。

僕が驚いたのは大きくわけると2点、1つ目はあれだけ遺伝子遺伝子といっておきながら、彼の論じる遺伝子には(少なくともこの本の中では)はっきりとした実体が与えられていないことである。もっとも考えてみれば、ドーキンスがこの本の初版を執筆したのは1976年、3年前にようやくDNA組み換え実験が行われるようになったくらいの段階であって、今のように誰でもインターネット上でゲノムプロジェクトの成果を見ることが出来るような時代とは訳が違う。だから仕方ないのかもしれないけれど、ドーキンスの主張に現在の分子生物学の知識を対応させようとすると、これがなかなかややこしくて僕はかなり苛々しながら読んだ。たぶんヘタに分子をイメージしないほうが良いのだろう。

そしてもう1つは彼が操るいささか過剰なレトリックに関してなのだが、こちらについては後で述べることにして、まずはその内容について簡単にまとめたい。

ドーキンスの一番の主張は、「利他的に見える動物の行動は、いかにして進化したか?」という疑問に対し、「一見利他的な行動も、すべて自らの遺伝子を残すための利己的な行動と考えれば、自然淘汰の結果として説明可能である」と答えることであった。章番号で言えば5章から10章にあたる部分で、ここでゲーム理論(ハト派とタカ派なんていうヤツ)を持ち出したことは良く知られていると思う。

そして、そのための大前提として、自然淘汰の単位は遺伝子であることを2章から4章で説明する。どうにもクドくて力みすぎのような文章だが、基本的には、複製され、保持され、変異する単位でなければ自然淘汰の単位にはなり得ない、ゆえに遺伝子こそが淘汰の単位であるという主張は十分に受け入れられる。

もちろん実際に淘汰圧がかかるのは個体の表現型(フェノタイプ)に対してなのだが、フェノタイプを決定づけるのはまさに遺伝子型(ジェノタイプ)であるという意味において、淘汰の単位は遺伝子であるのだ。この主張が「要するに何でもかんでも遺伝子のせいなのさ」という遺伝子決定論的な発言と取られたために(実際にそう読める)モノスゴイ議論が巻き起こったわけである。

さらに勢いにのったドーキンスは11章でかの有名な「ミーム理論」を展開する。この考え方はなかなかに面白いのだけれど、生物学の領域で議論出来ることなのか、と言われると僕にはどうも違うような気がしてしまう。少なくともミームは今のところ遺伝子→タンパク質→表現型という構造を持っていない。ドーキンスによれば、ミームという自己複製子はまだ出現したばかりで、今はちょうど原始スープの段階にあるのではないかというのだが…。

それから、”人間だけがミームを持つ”というドーキンスの物言いには僕はどうしても引っかかる。ドーキンスがどんな理由でこういう書き方をしたのかわからないけれど、文化を受け入れる脳構造を持つようになった動物なら何でも良くて、大型霊長類やイルカ、鯨といった動物もミーム・マシンと考えるほうがむしろ適当なのではないだろうか。これはすごく乱暴なもの言いだけれど、たとえばイルカの集団自殺が彼らなりのミームに基づいていないとも限らないわけで。少なくとも彼らは「遊び」を知っていますよね?

ともあれ以上が「Selfish Gene」初版の内容に当たるのだが、1989年の改訂版ではさらに2章が書き足されている。12章では囚人のジレンマという理論を持ち出して、それ自体は面白そうではあるのだけれど、それがドーキンスの理論を補強しているのかどうかはどうも良くわからない。そして13章はドーキンス2作目「延長された表現型」の概要にあたり、初版の理論的不足をかなり頑張って補完しているようだが、これに関してはちゃんと単行本を読んでからまた書きたいと思う。

さて、以上が内容の僕なりの要約で、ここからはオドロキの2つ目に話になるのだが、ドーキンスはこの本を書くにあたって大量のレトリックを導入した。もちろん彼自身ははわかって書いているわけだから比喩を使う際には必ず前置きをしていて、利己的な遺伝子とはいっても遺伝子に目的があるわけでは決してない、ただ、他と比較して自らのコピーを効率よくばらまけるような構造を持ったものが結果的に多数派となったというだけなんだ、と何度も繰り返し書いてはいるのだけれど、それでも現実に誤読した人がものすごく多く、そしてむしろ誤読されることで社会現象のようなブームを引き起こしたという側面は決して否定できないだろう。

たとえば僕が高校生の時に読んだブルーバックス「利己的遺伝子とは何か」のカバーの見開きには、大きな赤字でこんなことが書かれている。

「だから、みんな、勝手なのだ!」

誰が書いたか知らないけれど、バカをいっちゃいけない、これではまるで逆である。利己的遺伝子論は決して「どうしてみんな勝手なのか」を説明する理論では無いのだ。

ただ、現実的には「だから、みんな、勝手なのだ!」というコピーはすごくキャッチーで有効だろうし、読者としても「だからみんな勝手なのか!」と納得して、「コレも利己的遺伝子が悪いのさ」とかなんとかいって女の子を口説いちゃったりするほうがあるいは全然意味があることかも知れないわけで、それに対して逐一「それは間違った解釈だ!」と科学信奉者が叫んで、はたして社会が善くなるのかどうかというのは、ちょっと考えてしまうような問題ではある。

科学啓蒙書は「誤解されてもよいからわかりやすく書く」のと「誤解のないように難しくても正確に書く」のではどちらが良いのだろうか。僕は少なくともドーキンスのこの本はいささかやりすぎのように感じてしまったけれど、(まるでわざと誤解されるように書いているかの様だ)結局は書き手(=情報の発信源)だけが責任を負えるような問題では無く、受け手側の対応にも大きく依存するということなのだろう。ともあれ、科学啓蒙のあり方の1つのケース・スタディとして”利己的遺伝子ブーム”について検討してみるのもなかなか面白いんじゃないかと思うのだが、どうでしょうnaramaru さん(笑)?

それにしてもこの本を読む限りでは、ドーキンスは動物行動学者のくせになんだか動物があまり好きではなさそうな印象があって、ひょっとしたらそのあたりが宿敵グールドのカンに触るようなところ、あるんじゃないのかなぁ…と思いついた。ドーキンスはどうにも「賢しい」というか「鋭すぎ」という印象で、好みだけで言えば僕はグールドの方が好きですね。

最後に小ネタを1つ。ドーキンスは「銀河ヒッチハイク・ガイド」のダグラス・アダムスと親交が深かったらしくて、ダグラス・アダムスも「利己的な遺伝子」を愛読していたという話を聞いたけれど、さもありなんと思う。まるで人間の自由意志を完全に否定するかのような「利己的な遺伝子」の語り口は、ダグラス・アダムスやカート・ヴォネガットのSFと共通のシニシズムを備えているように感じるからだ。ひょっとすると、だからこそ「この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい」のかもしれない。さてはドーキンスも筋金入りのSFファンか?

「利己的な遺伝子」 リチャード・ドーキンス(英) 1976(1989 改訂)
利己的な利己的遺伝子が増殖する ★★★★

利己的な遺伝子
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by k_g_zamuza | 2006-04-11 14:42 | SF的生活


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