きまぐれザムザの変身願望
2008-12-08T03:57:40+09:00
k_g_zamuza
生物系大学院生の日々雑感。2007年6月、更新終了しました。ありがとうございました。
Excite Blog
きまぐれザムザのありがとう、さようなら。
http://zamuza.exblog.jp/5895370/
2007-06-14T23:11:00+09:00
2007-06-14T23:12:02+09:00
2007-06-14T23:11:09+09:00
k_g_zamuza
ザムザ変身前
突然どうして?と思われるかもしれませんが、特に大きな理由があるわけではありません。簡単に言ってしまえば”きまぐれ”ですが、その辺の事情についてはまたいずれ…。
ともあれ、このようなつたないブログをこれまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。とりわけこのブログを通じて知り合えた方々のことは、本当に大切に思っています。
それではまた、ネットの海でお会いしましょう。
***
2007年6月14日
心は今でも17歳、とはさすがに恥ずかしくて言えなくなった、27歳の
きまぐれザムザ]]>
さようならヴォネガット!私の愛したSF(29) 「スローターハウス5」
http://zamuza.exblog.jp/5573984/
2007-04-26T22:10:00+09:00
2007-04-28T13:51:39+09:00
2007-04-26T22:10:52+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
SF的生活では、ヴォネガット作品は私の愛したSF(10)で取り上げている。そこで彼のほかの作品もこれからどんどん紹介すると書いたはずなのに、続きを書かないうちに本人が逝ってしまった。3ケタを目指して始めたはずのこのカテゴリも、2年も経ってようやく”愛したSF”が28冊、”SF国境線”が10冊という体たらく。こんなことでは申し訳がたたないのだが、ささやかながら、哀悼の意を込めて、僕のもっとも好きな「スローターハウス5」を取り上げたいと思う。
スローターハウス5
または
子供十字軍
死との義務的ダンス
*
カート・ヴォネガット・ジュニア
ドイツ系アメリカ人四世であり
いまケープ・コッドにおいて
(タバコの吸いすぎを気にしつつも)
安逸な生活をいとなむこの者
遠いむかし
武装を解かれたアメリカ軍歩兵隊斥候
すなわち捕虜として
ドイツ国はドレスデン市
「エルベ河畔のフローレンス」の
焼夷弾爆撃を体験し
生きながらえて、この物語をかたる。
これは
空飛ぶ円盤の故郷
トラルファマドール星に伝わる
電報文的分裂症的
物語形式を模して語られた
小説である。
ピース。
これは「スローターハウス5」の見開きの1ページである。このエントリを書くために久しぶりに読み返そうと思って本を開いた僕は、このページを読んで思わず泣きそうになってしまった。率直に言って、ここに付け加えるべき言葉は何も無いような気がする。そもそも、彼は自分の死に際し、この作品を代表作として取り上げられることを喜ぶだろうか。それが不安になった。
「スローターハウス5」は、第二次大戦中、実際に行われたドレスデン爆撃を題材にし、それを身をもって体験した作者によって書かれた反戦小説である。高名な物理学者フリーマン・ダイソン(SFファンにはなじみ深い、ダイソン球の提唱者)は、第二次大戦時、イギリスの爆撃空軍司令部のオペレーショナル・リサーチという形でこのドレスデン爆撃にかかわっている。彼は長い間ドレスデンについて1冊の本を書こうとしていたが、ヴォネガットの「スローターハウス5」を読んで、自分が書く必要が無くなったことを知ったという。「彼の本は、すぐれた文学であるばかりでなく真実の記録でもある」とダイソンは書いている。
ところで、「スローターハウス5」の主人公ビリー・ピルグリムは”けいれん的時間旅行者”である。彼は何の脈絡もなく、時空をあちこちと飛び回る。作中では鉛管工事の吸い上げカップに似た緑色の宇宙人が重要な役割を占め、物語のいちばん最後の言葉は「プーティーウィッ?」である。そんな小説が「真実の記録による反戦小説」であることなどありえるだろうか?
読めばわかるけれど、答えはYESである。というか、ヴォネガットにはたぶんこの方法しか無かったのだ。
ヴォネガットは戦争になど行きたくなかっただろう。捕虜になって味方の爆撃を受けたりしたくはなかっただろう。書かずに済むものならば、「スローターハウス5」を書きたくはなかったかもしれない。しかし彼は書かざるを得なかった。彼は物を書く人であり、自らに穿たれた体験を書くことは彼の使命だった。彼はその作業に二十数年の歳月を費やし、ありったけのユーモアと、ジョークと、悪ふざけを注ぎ込み、キルゴア・トラウト、エリオット・ローズウォーター、ハワード・W・キャンベル・ジュニア、トラルファマドール星人、ラムファード一族、その他いろいろの力を借りて、どうにかこれを書き上げた。後に自作の採点をしたときに、彼はこの作品に「猫のゆりかご」と並んで最高点をつけているけれど、それでもヴォネガットはこの作品を「失敗作」と呼び、次は楽しい小説を書こうと思い、事実そのようにした。
ひょっとしたら、彼の戦争に関する全ての体験と、その結果として生まれたこの作品は、彼の”自由意志”とは全く無関係なところで生まれたものだとヴォネガットは感じていたのかもしれない。そんな風に思うのは、僕の勝手な妄想だろうか。
現代アメリカ文学の代表的作家、カート・ヴォネガットは「タイタンの妖女」を書いた。「猫のゆりかご」を書き、「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」を書き、「ジェイルバード」を書き、「ガラパゴスの箱舟」を書いた。どれもが素晴らしい作品だ。そしてどれもが楽しく、愉快な作品だ。彼はきっと鼻が高いだろう。だとすれば、僕も「スローターハウス5」について言わずもがなの文章をぐだぐだと書かずに、もっと楽しい作品について語るべきかもしれなかった。でもしかたがない、僕はこうして書いてしまったし、ビリー・ピルグリムに言わせれば、人間はみんな自分のすることをしなければならないのだから。
さようなら、ヴォネガット。さようなら、こんにちは。そして、ありがとう。
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Book to Film (5) 「華氏四五一度」/「華氏451」
http://zamuza.exblog.jp/5139603/
2007-03-13T23:06:00+09:00
2008-12-08T03:55:55+09:00
2007-02-12T21:00:16+09:00
k_g_zamuza
Book to Film
フランソワ・トリュフォーといえば、押しも押されぬヌーヴェルヴァーグの第一人者。はい、正直何のことやらわからず書きました(笑)が、この「華氏451」はいかにもセンスの良い小品、という感じでかなり気に入ってしまいました。たしかに地味で、のろくて、パッと見た印象はただの古臭い映画のようなのですが、眺めていると映し出される1シーン、1カット毎に何故か気を惹かれてしまうのですね。もちろんそのすべてが理解出来るわけではないし、今となってはあまりにも時代遅れに感じられるような部分もあるのですが、少なくともどの場面もただなんとなく撮った映像では無いということだけはしっかり伝わってくる。大げさに言えば、作り手の意思の力に満ちている、ということでしょうか。ふうむ、つまりこれがハイドンの音楽にも通じる、柔軟な好奇心に満ちた、求心的かつ執拗な精神ってやつですね?ホシノちゃん(笑)
原作はレイ・ブラッドベリの代表作で、本好きには避けて通れぬ(?)「華氏四五一度」。あらゆる書物が禁止された未来の管理社会で、焚書を仕事にしているはずの主人公が、ふとしたきっかけで読書に目覚めてしまう…というストーリーは、当時猛威を振るっていたマッカーシズムに対する強い反感から生まれたものだと解説には書かれていますが、歴史、特に政治史には極めて弱い僕には正直あまりピンときません。が、作中で描かれるディストピアはむしろ現代の読者にこそリアルな重みを持って迫ってくるのではないでしょうか。
映画のラストで、ブラッドベリの「火星年代記」くんが登場するのには思わずにやりとさせられましたが、「思い思いの1節を暗唱しながら雪の中を行き交う”本の人々”」という映像は(誰もが思うことのようですが)やはりすごく印象的でした。ある意味ではなんてことの無いシーンなのに、何故だろう?ちなみに原作ではもっと壮絶なラストが用意されているのですが、それをそのまま映画にしてしまうとたぶんすごく興ざめなものになっていたと思います。ラスト以外にも原作からの変更点は少なくないのですが、作品全体としては原作のテーマをかなり巧く(驚くほど、と言っても良いかもしれない)表現しているのではないかと。トリュフォーの作品の中では失敗作とみなされることが多いそうですが、なかなかどうして、優れた映画だと僕は思います。主演のオスカー・ウェルナーの無感動でシュールな演技も良い味を出していますし(撮影当時、主演のオスカー・ウェルナーとトリュフォーの関係はかなり険悪だったという話ですが…)ジュリー・クリスティは綺麗な人形のようで魅力的ですね。(というか、見ていてちょっと「サンダーバード」の人形を思い出してしまったのですが、それはさすがに失礼?)
ところで、電子化の進んだ現代においては”本の人々”になろうと思えば今や誰もが簡単になれるわけです。使い慣れたiPod に朗読データを放り込んで、こっそりイヤフォンで聞けば良い。そして、別に本に限らず、タブーとされる画像にしろ、発売禁止になった音楽にしろ、大抵のものはインターネットを通じて入手出来てしまう時代でもあります。が、それがブラッドベリの望んだ姿であるとは到底思えないのはどうしてなのか、ときどきちゃんと考えてみる必要がありそうです。
禁止されたものを取り戻すだけでなく、ときに押し付けられたものを振り払う。その理性、その知性が、どうか僕らと共にありますように。
***
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私の愛したSF(28) 「かめくん」
http://zamuza.exblog.jp/4766401/
2007-02-02T12:55:00+09:00
2007-02-09T12:54:58+09:00
2006-12-20T21:39:20+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
「最近面白かった本は?」
これだ。26歳にもなるとたいていの人はこういう子供っぽい話題にはなかなか付き合ってくれなくなるようで、僕としては寂しい限りなのだが、2ヶ月ほど前、久しぶりに話した友人から、ちょっと予想もしないタイミングでこの質問が飛び出した。あまりに唐突だったのでけっこう驚いたのだけれど、そんなそばから頭の中では勝手にカラカラと検索が始まって、このひとに薦めるならアレとコレと…なんて考えている自分がいて、なんだかすごく可笑しかった。
そのときは結局5、6冊を薦めてみたのだけれど、その中に1冊くらい毛色の変わったものも、と思って入れたのが今回の作品、北野勇作「かめくん」である。ちなみにタイトルがあまりに面白かったらしく、あとでずいぶん笑われたのだけれど、幾ら笑ってくれても結構、誰が何と言おうとこれは希代の名作なのだ。
というわけで、これから「かめくん」がいかに優れたSFかを書いていきたいところなのだけれど、こうやっていざ書こうとすると困ったことに言葉がぜんぜん出てこない。たとえば構造が椎名誠のSFに似ているとか、「ドラえもん」だとか、「ヨコハマ買い出し紀行」だとか、いやむしろ「かんがえるカエルくん」だとか、そういうことを言ってみてもあまり面白くはないだろう。癒し系とかほのぼの系だなんて言葉を安易に使いたくもない。そんなカテゴライズはもったいない。だからといって、仰々しく持ち上げたいかと言われるとそうでもない。日本SF大賞受賞なんて肩書きばかりに気をとられていると大事なことを見落としてしまいそうだ。
「かめくんはかめくんであってかめくんでしかないのだから」
なんていう作中の言葉をつかまえて分かった様なふりをしたくもない。(そもそもこんな書き方は反則すれすれだろう)かめくんがモノレールに乗って僕が住んでいるところまで通ってきていることを書いてみても何も始まらない。なんというか、そういう一切の説明を拒否するようなところで成立している作品なのだ、これは。
仕方が無いので僕はとりあえず黙って本を渡すことにしている。読まなければわからないし、読めばもうそれで良い。そういう本があったって良いだろう。自分がほんもののカメではないことを知っていて、どこにも所属していないことを知っていて、リストラされて職を探してまた働いて、ときどき好きなリンゴを食べたり誰かに憧れたり本を読んだり映画を観たり、何かに巻き込まれたり戦ったり猫を可愛がったり、学んだり忘れたりまた思い出したり、そうやってやってきて、また去ってゆく。それが「かめくん」。それだけのことなのだ。
「かめくん」 北野勇作(日) 2001
日本SF大賞
うまいうまいうまいうまいうまいうまい ★★★★
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Book to Film (4) 「鼠たちの戦争」/「スターリングラード」
http://zamuza.exblog.jp/4936075/
2007-01-24T16:00:00+09:00
2008-12-08T03:56:59+09:00
2007-01-16T17:28:39+09:00
k_g_zamuza
Book to Film
独ソ戦の大きな転機となった史上最大の市街戦、スターリングラード攻防戦を舞台に、ソヴィエト側のスーパースナイパーとドイツ側のスーパースナイパーによる狙撃兵同士の一騎打ちを描いたこの作品、なんと史実に基づくというからすごいのである。
主人公ヴァシリ(小説ではワシーリィ)・ザイツェフはレーニン勲章まで受章した実在のソ連の英雄で、さっき調べたらウィキペディアに写真入りで載っているのに気がついた。大型のライフルを構え、ちょっと困ったような笑いを浮かべるザイツェフは、このとき今の僕と同じ年齢のはずで、写真ではごくあたりまえの青年に見える。本文中には257人の敵兵を殺害、とあるけれど、残念ながらその数字の持つ意味が僕にはまったくイメージが出来ない。(257匹のマウスなら僕も殺したと思うけれど)本当はどんな人だったんだろうか。
小説ではシベリア出身の元猟師で、その天才的な狙撃技術によりスターリングラードの生ける伝説となった若き曹長「兎」ことザイツェフと、打倒ザイツェフの切り札としてドイツから送り込まれた狙撃学校の「校長」ハインツ・トルヴァルト大佐の息詰まる決闘を中心に、熾烈を極めた市街戦の有様がソヴィエト、ドイツ両軍の兵士の視点で交互に語られてゆく。銃弾が雨あられのように飛び交うのかと思いきや、これはあくまでも狙撃兵の戦い、1発の銃弾が発射され、1人の人間が倒れる、その間に交わされたかけひき、策略、心理戦の様子が、ときに何十ページにもわたって丹念に描かれる。それが退屈かといえばそんなことは全く無くて、あたかも自分がその戦場にいて、見えない敵の十字線から逃れるべく、瓦礫の影に必死で身を縮め、息を殺してあたりを伺っているような気分にさせられるから、これはなかなか大した筆力だと思う。(筆者のロビンズはこの作品の後も戦争モノを何作か書いているようだけれど、その精緻な描写力は確かに戦争を描くのに向いているような気がする)クライマックスの対決シーンは何度読んでもスリリングで、僕はつい何度も読み返してしまう。
さて、映画「スターリングラード」は、正確には「鼠たちの戦争」を原作にしたわけではなく、同じ史実を元に映画化したものだったと思うけれど、このくらいの距離感が小説と映画、お互いを邪魔せずに楽しめてちょうど良いような気もする。ヴァシリを演じるジュード・ロウはちょっとスマートすぎ、若々しすぎで小説のザイツェフのイメージとはだいぶ違うし、そもそも全然ロシア人に見えなかったのだけれど、突然戦場に駆り出された田舎育ちの素朴な青年が、その射撃の才を見出され、英雄に祭り上げられてゆく、というストーリーには合っているとも思った。対するケーニッヒ少佐役のエド・ハリスも臆病者の「校長」トルヴァルトとはやはりイメージが違ったけれど、こちらは風格漂うナチの将校を見事に演じており、すごく魅力的だ。
ストーリーは、もちろん大まかな流れは小説と同じなのだが、シリアスな戦闘描写の隙間にいささか場違いな感のあるヴァシリ、ターニャ、ダニロフの三角関係が押し込められており、ラストも安直なハッピーエンドになっていて、それがいささか勿体無い気がする。のだけれど、なんというか(この辺は感じ方が大きくわかれるところだと思うけれど)「娯楽映画なんだからその辺は割り切ろうぜ」的な雰囲気があって、僕は不思議とまあこれで良いかという気にさせられた。だから観終わった後の印象は決して悪くなく、うん、面白かったな、と素直に思ったのだ。特別話題になった映画ではないと思うけれど、これが意外と良いんだよね、ちょっと観てみたら、と言いたくなる作品かもしれない。
ところでどうでも良いかもしれないけれど、劇中のザイツェフとターニャのラヴシーンがなんだかやたらとエロティックでドキドキしてしまったのだが、この辺はさすがフランス人監督ということなのか、よかったら誰か教えてください。
***
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Book to Film (3) 「ティファニーで朝食を」
http://zamuza.exblog.jp/4989554/
2007-01-23T14:29:00+09:00
2008-12-08T03:57:13+09:00
2007-01-22T19:54:17+09:00
k_g_zamuza
Book to Film
小説「ティファニーで朝食を」の主人公はカポーティ自身と思しき作家、その彼のところに、昔なじみだった飲み屋の老主人から電話がかかってくるところから物語は始まる。それだけでもう、ホリーの話だな、とピンと来ている。もう何年も会っておらず、どこで何をしているのかもわからない。なのに、どうにも忘れがたい女なのだ。もう一度会ってみたいような気もするけれど、それよりもこうして彼女に振り回された男同士、ときどき噂話を交換しては、あとはそれぞれ好き勝手に思い出に浸りたい、ホリー・ゴライトリーとはそういう女なのだ。
「あなたは間違っていますよ。あの女はくわせ者(phony)ですぞ。しかし、あなたが正しいともいえますな。あれはくわせ者じゃないです。というのは、あの娘は本物のくわせ者だからですよ」
上はホリーの取り巻きの1人、O.J.のセリフだが、ちょっと面白いのはかのライ麦畑のホールデン少年の口癖が、やはりインチキ(phony)だったことである。ホールデンがphony だと罵り、懸命に否定しようとした側の人間であるO.J.が、ホリーを「本物の」phony だと言うとき、そこにはphony な世界に組み込まれてしまったかつてのホールデンがちらりと顔を見せている。
小説の解説では「プレイガール・ホリー」という人物像についてばかりぐだぐだと書いてあるけれど、そんな読み方ははっきりいってまったく面白くない。大切なのは何故ホリーが無軌道な生活を選ぶか、ではなく、何故そんなホリーに主人公が惹かれるか、ではないのか。本物の贋もの、壊れもの、傷もの、そういうものの方が、ただの本物よりもずっと魅力的にみえることがある。そういうものにばかり惹かれてしまう人がいる。大抵は男だ。カポーティ自身が、きっとそうだった。
さて、「Book to Film」ということで、映画「ティファニーで朝食を」の方にも触れなければならないのだけれど、正直に言って映画に関してはあまり書くべきことがない。たしかにカポーティの小説とは別物かもしれないが、「オードリーの映画」としてカンペキで、その愛らしさにただただ降参するばかりなのである。天才の感性も、真に美しい女性の前では無力か、なんて。
これで終わるのも寂しいので、1つだけ蛇足を。ホリーのアパートの最上階に住む日本人写真家ユニオシさん、映画ではミッキー・ルーニーがかなり偏った日本人のイメージで演じていてこれがなかなか面白いのだけれど、ユニオシなんて苗字、聞いた事も無い。それで思いつくのは村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」に登場したユミヨシさんなのだけれど、ユニオシさんを想像しながらユミヨシさんのくだりを読むのは、これはいささか興ざめだと思うのだが、いかが。
***
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Book to Film (2) 「ジョゼと虎と魚たち」
http://zamuza.exblog.jp/4875076/
2007-01-09T18:58:00+09:00
2008-12-08T03:57:40+09:00
2007-01-08T21:25:47+09:00
k_g_zamuza
Book to Film
こういう小説は、この世のすべてに絶望した人が、せめて最期に綺麗な夢を見ることを望んだ、その夢のようなものとして成立しているのだと思う。つまり、原則としてどうしようもなくデッドなファンタジィなのだ。少なくとも、僕はそう読んだ。
そんなわけだから、映画が始まってしばらくは頭が混乱していた。何が違うのか良くわからないまま、なんだかだんだん腹まで立ってきた。ようやく気がついたのは、物語も終盤に差し掛かかったあたり、ジョゼの「息子」がジョゼに車を貸しに来るくだりまで観てからのことだった。
「ああ、つまりこの映画は生きてゆく物語、リアルでライヴな物語なのだ」
それでようやくカチリとはまって、それ以降はすいすいとのっていけた。
恒夫があまりにも平凡な大学生であることが不思議だった。馬鹿をやれる友人達がいて、いい仲の女友達がいて、気になる女の子がいる。ジョゼのファンタジィに付き合うには明らかに役不足で、そもそもソレに付き合う必要が恒夫には無い。映画のストーリーは恒夫に現実の傷と痛みを与えたが(当然のことだ)、それと同時にジョゼにもリアルな世界で生きてゆくことを強いて、最後のシーン、電動車椅子に乗り颯爽とゆくジョゼは力強く美しいかもしれないが、そこには小説にあったファンタジィが入り込む余地は無かった。下半身不随の25歳の女性、フランソワーズ・サガンに影響されて「ジョゼ」を名乗るクミ子と、その「管理人」を自認する23歳の恒夫のおとぎ話は、そもそもはじめからほとんど無視されているのだ。
犬童監督がどういう思いであの原作からこの映画を撮ったのか、僕はちょっと量りかねている。初めからこう読んだのかもしれないし、意図的にこう作ったのかもしれないし、撮ってゆく最中でこう動いていったのかもしれない。実は映画を観た後、ひょっとしたら僕の方がミスリードをしていたんじゃないかと少し不安になって、原作を何度か読みかえしてもみた。(あるいは大阪弁のニュアンスをとり損なっているかもしれない)でも、やはり原作と映画、両者のベクトルは完全に真逆を向いていると僕は思う。そのどちらが良い、悪いではない。僕の想像とまるで違ってはいたけれど、すごく良い映画だった。俳優陣の演技も良く、映画を観た人の多くは、きっとどこかに共感したり何かを思い出したりして心を動かされるだろう。僕も恒夫が号泣する場面には感心したし、素直に感動もした。(出来ることならべしょべしょと一緒に泣いてもみたかった)
ただ、いつまでもファンタジィに遊んでいたいコドモな僕らにとっては、こういう映画を観ると少し淋しく思うのも(映画のストーリーが、では無い)本当のことなのだ。エンドロールでくるりが「ハイウェイ」を歌って、僕もちょっとだけ、どこかへ出かけてしまいたい気分だった。”僕が旅に出る理由は、だいたい百個くらいあって、、、”
***
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私の愛したSF外伝 「サマータイムマシン・ブルース」
http://zamuza.exblog.jp/4861339/
2007-01-06T23:57:00+09:00
2007-01-26T15:35:04+09:00
2007-01-06T23:57:44+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
おかしなタイトルだ。「サマータイム・ブルース」ならエディ・コクランかThe Who か、さもなければ渡辺美里だろう。「タイムマシン」ならもちろんウェルズだ。それが合体しているということは、ピート・タウンゼントの風車弾きを動力に使ったタイムマシン?いやいやそんなバカな。
これを手に取ったのは、たまたま邦画が観たいような気分だった、「博士の愛した数式」はレンタル中だった、借りようと思っていた「笑の大学」の隣にあった、そしてタイトルが変だった、それだけだ。それだけだったのに、こうやってちゃんと出会ってしまうから人生は面白い。
話はとある大学の夏休み、グダグダな毎日を過ごすSF研究会の男子学生5人とカメラクラブの女子学生2人の前に、突如としてタイムマシンが出現する。軽い気持ちで乗ってしまったは良いものの、過去を変えると未来が変わり、このままではみんな消えてしまう!?ナンテコッタ、なんとかせねば、、、というドタバタ喜劇。もともと劇団「ヨーロッパ企画」の舞台を映画化したということで、たしかに表現は小劇場的で、それだけに先の展開は読みやすいのだけれど、それで面白さが失われるなんてことはもちろん無い。これはセンスオブワンダーを売りにするSFではなく、れっきとした青春群像劇なのだ。(じゃあここで紹介するなって?)
SFが何の略かも知らないSF研。何故か野球のユニフォームを持っているSF研。僕はSF研に居たことは一度もないけれど、こういうグダグダ感は何故だかよおく知っている。まず思い浮かんだのはゆうきまさみの漫画「究極超人あ~る」で、これはじっさい雰囲気がそっくりなのだけれど、それよりも僕が居た演劇部だって、同じことではなかったか。毎日同じメンバーと顔をつき合わせ、グダグダとつるんではくだらない遊びに夢中になり、ときにはロクでもないことをしでかして、なんとも非生産的、でもとにかく毎日がすごく面白かった。映画を観ていると、そういう大事なことがにやにや笑いと共によみがえってくる。そういうことが大事だったということをまた思い知らされる。そしてついでに、僕が映画を観ると思い出しマシーンになることがよく分かる。あ、だから「タイムマシン」で「ブルース」なのか。なるほど。
俳優に惹かれて借りたわけでは決して無いのだけれど、上野樹里と真木よう子の取り合わせは反則的にハマっていると思う。主役の瑛太くんは他のメンバーのハジケっぷりに喰われてしまって、頑張ったわりにはどうにも影が薄いのだけれど、最後の「苗字って、変えられるのかな?」には、予想は出来ていてもやはりくらりときてしまった。(ただし、僕はこのセリフの前に別のオチを思いついて、そちらのほうが個人的には気に入っているのだが)ついでに自分が佐々木蔵之介好きだということを確認。あ、どうでもいいか。
ええと、最後に、この映画、最初から最後までとにかく面白かったのだけれど、何度も言うけれどネタが劇場的なので、舞台ならきっともっと面白いんじゃないかということをずっと考えながら観ていた。(というかいちいち頭の中で舞台に変換していた。むしり取った 昔とった杵柄だろう)ヨーロッパ企画の舞台もDVD化されているようなので、そちらも必ずチェックしようと思います。
「サマータイムマシン・ブルース」 (日) 2005
青春とは、グダグダな部活動のことである! ★★★★☆
サマータイムマシン・ブルース スタンダード・エディション (初回生産限定価格)posted with amazlet on 07.01.26
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Book to Film (1) 「スタンド・バイ・ミー」
http://zamuza.exblog.jp/4853268/
2007-01-06T19:02:00+09:00
2008-12-08T03:54:38+09:00
2007-01-05T22:10:26+09:00
k_g_zamuza
Book to Film
ともあれ、最初の1作目は「スタンド・バイ・ミー」です。
***
長い間スティーブン・キングを無視し続けてきた。そもそもホラー小説があまり好きではなかった。高校生の頃、友人が読んでいたディーン・クーンツを借りたときも(たしか「インテンシティ」だったと思う)まったく響かなくて、モダンホラーとはこんなにつまらないものかと思った。
その後、ちょっとした内輪のパーティの余興で、キング原作の「ペット・セメタリー」を観る機会があった。いかにもB級ホラー、というチープな雰囲気が可笑しくてくすくす笑いながら観た。(ただし1人だけ怖がって泣いた女の子がいた)同じ頃にたまたまNHKで放映された「ランゴリアーズ」のお粗末なCGも良くなかった。読む前から僕の中でスティーブン・キング=安っぽい娯楽映画の原作者、というイメージが定着してしまったのだ。(もっとも「ランゴリアーズ」のストーリー自体はかなり面白かったけれど)
名作「グリーンマイル」はたしか映画館で観た。これは文句無く面白かった。映画館を出た後、すぐに家に帰るのがもったいなくて、ガールフレンドと2人、行くあても無く夜の街を歩いたような記憶がある。が、結局オカルト・ギミックかよ、という気分はまだあった。薄っぺらい6冊組の文庫本というのも気に入らなくて、読んでみようとは思わなかった。
そんな紆余曲折を経て、ようやく「スタンド・バイ・ミー」に辿りついたのだ。20数年間、これほど有名な作品に触れる機会が一度も無かったというのも考えてみれば珍しいことかもしれないけれど、ともかく先に小説を読んで、たまげた。キングとはこんな作家だったかと思った。一部の隙も無いピカピカの青春小説だ。カンペキだ。
つい先日映画の方を観て、またやられた。こちらもカンペキだ。当然原作とは細部が少しずつ異なっているのだけれど、その変え方1つ1つが実にスマートでいちいち納得させられる。そうだ、拳銃はゴーディが撃てば良い。エースの仕返しのエピソードなんか不要だ。クリスが弁護士になれたのも良かった。映画はこれで良い、いや、こうあるべきだ。小説と映画、それぞれがそれぞれのベストの方法で同じテーマを描ききり、結果的に原作と映画の両方が共に非の付け所の無い傑作に仕上がっている。こういう奇跡的なペアを、僕はこれから幾つ見つけられるだろうか?この新カテゴリを立てたのは、そんな興味もあってのことだった。
でも、もういいだろう。そんなことは本当はどうでも良くて、僕が今書きたいことは、こうだ。
つまりそう、僕にだってあったのだ。テントをかついで仲間とキャンプに行ったこと。友達が自転車で車の側面に突っ込んで、助手席側のドアがぐちゃぐちゃに潰れて、運転手が真っ白な顔で飛び出してきた。友達と自転車がほとんど無傷だったのが今思えば信じられない。ローティーンの少年はそれほど無敵なのだ。真夜中に何故か目が覚めてみんなで星を見たこと。少し歩けば国道にぶつかるような場所だったけれど、それでもびっくりするくらい星が沢山見えて、流れ星がスーッと流れて、ワルぶったあいつもすげえ、すげえと声を弾ませていた。竿を並べて川釣りをしたこと。見知らぬ婆さんがやってきて言った、ここの淵は深さが3メートルもあって、いったん沈んだら二度と浮かび上がれないよ、ちょっと前にも中学生が死んだんだよ、、、
そういう思い出が、ひょっとしたら人生で一番大切なものなんじゃないのかと、このところ頻繁に思う。「スタンド・バイ・ミー」を読み、映画を観た、それだけが原因ではないけれど、ここ最近の僕はそんな気分を少しもてあまし気味に過ごしている。だからダーリン、スタンド・バイ・ミー。
夜が来て あたりは真っ暗
僕らを照らすのは 月の明かりだけ
でも怖くなんかない 怖くないさ
君が僕の側にいるかぎりはね
そう だから僕の側にいてくれないか
僕の側にいてくれ
見上げた空が もし崩れ落ちても
あの山が もしも海に沈んだとしても
僕は泣かない 涙なんかこぼさない
君が僕の側にいるあいだはね
ねぇ だから僕の側にいてくれないか
僕の側にいてくれ
***
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私の愛したSF(27) 「果しなき流れの果に」
http://zamuza.exblog.jp/3937396/
2006-08-05T16:36:00+09:00
2007-01-26T15:37:27+09:00
2006-08-05T16:36:36+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
そう、どうしてなのかわからないけれど、小松左京のSFを読むたびに僕が感じるのは、いわゆる古き良きSF、古典的SFというのとも微妙に違う、なんともいえないノスタルジックな感覚であって、それはたとえばつげ義春の漫画から感じる郷愁と同タイプのもののように思う。要するに、彼の作品はどれだけ遠い未来を描こうとも、感じる印象が常に「戦後」であり「昭和」なのだ。(このあたり、同世代の星新一の作品がほぼ完全に時代を超越しているのと好対照かもしれない)そのせいで、小松左京のSFはどれを読んでもあまりSFを読んだという気がしないのだが、ともかく1冊とりあげてみよう。作品は最高傑作の呼声も高い「果しなき流れの果に」。
”N大理論物理研究所の助手、野々村が、上司である大泉教授とその友人・番匠谷教授に呼び出されて見せられたもの、それは中生代白堊紀の地層より出土したという、永遠に砂の落ち続ける砂時計であった!驚異的な発見の謎を解くべく発掘現場の調査を開始した一行であったが、周囲に怪しい男の影がちらつき、事態は不穏な方向へと進んでゆく。彼らが知らず巻き込まれたもの、それは十億年もの時間と空間をこえた、「意識の進化」のための果てしなき戦いであった…”
さて、「人類はどこから来て、どこへ行くのか?」という壮大な(同時にありがちでもある)テーマを扱ったこの作品、一応上のような作品紹介を書いてはみたものの、これを読んでも具体的にどんな話なのかはさっぱりわからないだろう。実は、読んでもイマイチよくわからないのだ(苦笑)
導入部分はなかなか良い。地に足のついた書きっぷり(冒頭から真顔で”四次元空間”なんて言葉が飛び出すのはご愛嬌)とサスペンスフルな展開で読ませてくれる。ただ、この部分はあくまで全体の4分の1程度で、ここから先がどうにも詰め込みすぎかつ飛ばしすぎなのだ。ちなみに”詰め込みすぎかつ飛ばしすぎ”なのでこの作品をワイドスクリーン・バロックに分類する人も居るようだけれど、最も大切な要素である「バカ」が欠けているので個人的にはまったくWSBを感じなかった。
早川書房版の解説でも指摘されていることだが、特に後半、物語としての完成度にはかなり不満を感じてしまう。それは作者も十分承知した上でのことだというけれど、(作品というよりは未来のラフスケッチ、あるいはフィールドノートとのこと)綿密に書き込まれた細部のディテールがあってこそ、壮大なヴィジョンが生きると僕は思うし、(例外的に、ワイドスクリーン・バロックだけは細部を完全に無視することで成功しているとも言える)ともかく個人的にはせっかく面白いテーマを扱っているのにどうにもアピール不足かつ散漫な印象が拭えず、最後まで完全には乗り切れなかった。
ちりばめられたアイデアの中にはキラリと輝く断片が幾つもあって、小松左京の能力は確かに非凡なものだと思うけれど、「今読んでも古臭さを感じさせない」とか「世界観が変わった」とまで言われると、他にどんなSF読んできたのだろうと思わないことも無かったりする、僕にとってはそんな作品なのでした。ここでそんなに感動してちゃあ、身体がもたないぜ?
ところでモノレール文庫、というのをご存知だろうか。大阪モノレールを利用する人以外は当然知らないと思うけれど、待ち時間が長めのモノレールに乗るとき、駅構内に本棚があってそれを好きに持ち出して良いという天国のようなシステムなのだが、実は「果しなき流れの果に」はそのモノレール文庫で借りて読んだ本なのでした。物語の前半部の舞台も大阪なので、ちょっとした運命を感じたり、感じなかったり。いやはや、どうでも良いですね。
「果しなき流れの果に」 小松左京(日) 1966
”それは長い長い・・・夢物語です” ★★☆
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私の愛したSF(26) 「五分後の世界」
http://zamuza.exblog.jp/3712259/
2006-06-28T12:01:00+09:00
2007-01-26T15:39:07+09:00
2006-06-27T21:34:33+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
(結局、中田ヒデやイチローは頭が良すぎるのだと思う。パス1本、スイング1振りにすら意味を求め、思想を込めるような彼らのあり方は、そうではないタイプの人たちから見ればほとんど理解不能かもしれない。そして、残念ながら前者が後者より必ず優れているとは言えないのだ。どんなに優れた思想も強力無比な一撃の前では無力になる、それがスポーツなのだから)
ともあれ、「孤高の中田」というキャッチフレーズを目にするたびに僕はいつも思い出す本があって、それが今日の1冊、村上龍「五分後の世界」である。
”現代から時空が5分ずれたもうひとつの日本。そこは太平洋戦争で降伏しなかった日本、国土を失い、地下へと潜み、人口わずか二十六万の戦闘的小国家として生まれ変わった日本=アンダーグラウンドであった。アメリカを中心とした連合国相手に激烈なゲリラ戦を続けるUG兵士達の目的はただ一つ、生存し続けること。そして、敵にもわかるやりかたで、世界中が理解できる方法と言語と表現で、日本国の勇気とプライドを示し続けること…”
中田ヒデと村上龍の間にはかなりの親交があるらしいけれど、僕は中田語録を読み漁っているわけでも村上龍の熱心な読者でもないので実際どういった付き合いなのかは分からない。中田が「五分後の世界」を読んだのか、(たぶん読んでいるだろう)読んでどう感じたのかも知らない。ただ、村上龍がこの本に込めたメッセージと中田ヒデのサッカー哲学のベクトルはぴたりと一致しているようにみえる。フィジカルを徹底的に鍛え、セリエではイタリア語を、プレミアリーグでば英語を当たり前のように話し、不正確な日本人記者の質問には顔をしかめ、ブラジル戦の前には守らなければならないものは唯一”誇り”だと言いきった中田ヒデは、まるでUG兵士そのものだ。
サッカーの話ばかりで恐縮だけれども、本当に強い代表チームの選手は必ずプライドをかけてプレーする。ブラジルの、イングランドの、イタリアの、アルゼンチンの、ドイツの、各々のサッカーの歴史と伝統の重みを、たぶん彼らは理屈ではなく幼いころから肌で感じて知っているのだろう。
翻って今回のW杯、日本代表のうちいったいどれだけの選手が「日本サッカーの誇り」を意識してプレーしたのだろうか。ブラジル戦後の会見でジーコが言った、「この歴史の少なさの中で本当にW杯に行くんだという気持ち、非常に軽い気持ちで来てしまった選手もいるかもしれない」という言葉は極めて正直なセリフだろうと僕は思った。ブラジル人のジーコには、セレソンが本当に特別なものだ、ということを十分に理解しない選手が居ることは信じられないことだったに違いない。
全員が中田のようにはなれないかもしれない。それでも、ともすれば最も個人主義的とさえ見られる男こそが、ひょっとしたら誰よりも日本の誇りを意識し、そのために戦っているのかもしれないということにもっと多くの人が気づいてくれれば良いのにな、と僕はときどき思う。
ところで村上龍だけれど、僕は正直あまり好きな作家ではない。書くもののレベルにばらつきがありすぎるし、欲が出すぎた顔をしているのも気に入らない。ときどきあまりに陳腐で俗っぽいことを書いたり話したりしているのを見て呆れることもある。それでも、彼の描写力にときどきもの凄い力が宿ることは、これは認めなくてはならないだろう。「五分後の世界」はページ数のほとんどが戦闘描写に費やされる。そして音楽、ダンス、暴動…曖昧さを徹底的に排した正確無比な描写だけが表現しうる小説世界を、一度体験してみてください。続編「ヒュウガ・ウイルス」も僕は好きです。
「五分後の世界」 村上龍(日) 1994
”生きのびることだけを考える、それがゲリラの本質だ” ★★★★☆
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私の愛したSF(25) 「海からきたチフス」
http://zamuza.exblog.jp/3463979/
2006-05-19T19:01:00+09:00
2007-01-26T15:40:47+09:00
2006-05-19T19:01:46+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
「少年少女21世紀のSF]は残念ながら絶版で、Moth さんの勧めで僕も復刊ドットコムに投票してきたけれど、(今見たら94票、もう少しだ!)実は「ゼロの怪物ヌル」は「海からきたチフス」と改題、文庫化されて、現在も入手可能なのでした。ちなみに僕が所有しているのは角川文庫版だけれど、現在書店で買えるのは新風舎文庫のもののようだ。
畑正憲の著作群、僕は昔から好きで、とりわけ「少年記」、「青春記」、「結婚記」、「放浪記」の自伝4部作は最高に良くて、生物が大好きなのに文学も諦められず、気持ちだけが空回りして結局大学院を中退、ずぶずぶと自堕落な生活にはまり込んでゆくくだりなどはとても他人事とは思えないのだけれど(苦笑)、それはさておき「海からきたチフス」である。
”夏休み恒例の家族旅行で大島を訪れた中学3年生の主人公、木谷ケン。大好きな大島の海は、しかしいつもとはどこか違っていた。貝類をはじめとした沿岸の生物達が姿を消し、代わりに突如出現したのはさえない白いかたまり、謎の生命体ヌル。そろいもそろって生物好きの小谷一家がこの謎に取り掛かろうとしたとき、突然島を奇病が襲う!そしてさらにとんでもない事件が…”
いきなりだが、生物系のSFというのは、実は成立させるのがかなり難しいジャンルなのではないかと僕はよく思う。生物ならではのセンス・オブ・ワンダーを上手く伝えられずに、結局良く出来たホラーやサスペンスとしてまとまってしまう作品が少なくないような気がするのだ。(それが何故なのかは良くわからないけれど)
そういう意味で言うと、「海からきたチフス」はムツゴロウ氏初の小説ということもあり、はっきり言って技術的にはかなり未熟な仕上がりだ。無駄が多く、読んでいてギクシャクするところも少なくない。ただし、これでもかとばかりにぶちまけられたセンス・オブ・ワンダーは、間違いなく本物、一級品である。初めて読んだとき(もちろん「ゼロの怪物ヌル」として)当時小学生だった僕はあまりのカンドーとコーフンを誰かに話さずには居られず、しばらくの間は誰彼構わず捕まえては”無細胞生物が…”とか”ATPが…”とか自分でもよくわからないことをベラベラとしゃべりたおしていた記憶がある。(我ながら迷惑な子供だ)
そして今、こうやって自分が生物屋のはしくれになってから再読しても、この本の輝きは一向に失われてはいない。もちろん現在の目から見ればヌルという生物のアイデアはかなり乱暴なものではあるけれど、アイデアが現実的かどうかは良質のSFにとっての必要条件では全く無いし、本文中で述べられたヌルとウイルスとのアナロジーだけではなく、今流行のプリオン病のようなもののことを考えてみると、やはり専門家、核となる発想は非常に鋭かったと言うべきかもしれない。
ともかく、こればかりは読んでもらわないと伝わらない。ムツゴロウ氏をときどきTVに出ては動物を舐め回す変なじいさんだと思っている貴方、暇があれば彼の本をぜひ手に取ってみて欲しい。彼の生物への熱い思いがビンビンと伝わってくるはずだ。ちなみに解説で福島正実氏がその熱さを「執着」という言葉で表現しているけれど、ムツゴロウ氏の興味対象への入れ込みっぷりは(オオーヨシヨシ、オオーカワイイカワイイ!)たしかにいささか常人のレヴェルから逸脱しているような気がする。要するにある種の天才なのだろうというのが、彼に対する僕の正直な評価です。
最後に蛇足を2つ。さっきウィキペディアの架空の生物カテゴリにヌルの項目があることに気がついたのだけれど、これって実はかなりスゴイことではあるまいか。ヌルってそんなにメジャーでしたっけ?
それからATPによる治療について。作中でかなり重要なポイントとなる「ATP無効説」、実は僕はそんな話を聞いた事が無いのだけれど、少なくとも現在はATP製剤も注射剤も存在します。ムツゴロウ氏は生理学出身だから、全くのデタラメを書いたわけでは無いと思うのですが、どうなのでしょう。
「海からきたチフス」 畑正憲(日) 1969
動物王国のSF ★★★★
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SF国境線(10) 「利己的な遺伝子」
http://zamuza.exblog.jp/3201531/
2006-04-11T14:42:00+09:00
2007-01-26T15:42:04+09:00
2006-04-11T14:42:08+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
読んでみてなんやようわからん、と思った人は千夜千冊の方で補完してください。 今回は超有名どころ、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」の話を。まえがきに「この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい」とあるので、ここで紹介するのにはおあつらえでしょう。
生物系のくせに、と言われてしまいそうだが、実はこの本を読むのは今回が初めてなのでした。とはいえ利己的遺伝子についての噛み砕いたような概説書を何冊か読んではいて、そのアウトラインはある程度理解しているつもりでいたのだけれど、実際に読んでみると、いやはや、こんなことが書いてある本だったとは、というオドロキの連続でした。やはりちゃんと知ろうと思うならオリジナルに触れなければ駄目ですね。
僕が驚いたのは大きくわけると2点、1つ目はあれだけ遺伝子遺伝子といっておきながら、彼の論じる遺伝子には(少なくともこの本の中では)はっきりとした実体が与えられていないことである。もっとも考えてみれば、ドーキンスがこの本の初版を執筆したのは1976年、3年前にようやくDNA組み換え実験が行われるようになったくらいの段階であって、今のように誰でもインターネット上でゲノムプロジェクトの成果を見ることが出来るような時代とは訳が違う。だから仕方ないのかもしれないけれど、ドーキンスの主張に現在の分子生物学の知識を対応させようとすると、これがなかなかややこしくて僕はかなり苛々しながら読んだ。たぶんヘタに分子をイメージしないほうが良いのだろう。
そしてもう1つは彼が操るいささか過剰なレトリックに関してなのだが、こちらについては後で述べることにして、まずはその内容について簡単にまとめたい。
ドーキンスの一番の主張は、「利他的に見える動物の行動は、いかにして進化したか?」という疑問に対し、「一見利他的な行動も、すべて自らの遺伝子を残すための利己的な行動と考えれば、自然淘汰の結果として説明可能である」と答えることであった。章番号で言えば5章から10章にあたる部分で、ここでゲーム理論(ハト派とタカ派なんていうヤツ)を持ち出したことは良く知られていると思う。
そして、そのための大前提として、自然淘汰の単位は遺伝子であることを2章から4章で説明する。どうにもクドくて力みすぎのような文章だが、基本的には、複製され、保持され、変異する単位でなければ自然淘汰の単位にはなり得ない、ゆえに遺伝子こそが淘汰の単位であるという主張は十分に受け入れられる。
もちろん実際に淘汰圧がかかるのは個体の表現型(フェノタイプ)に対してなのだが、フェノタイプを決定づけるのはまさに遺伝子型(ジェノタイプ)であるという意味において、淘汰の単位は遺伝子であるのだ。この主張が「要するに何でもかんでも遺伝子のせいなのさ」という遺伝子決定論的な発言と取られたために(実際にそう読める)モノスゴイ議論が巻き起こったわけである。
さらに勢いにのったドーキンスは11章でかの有名な「ミーム理論」を展開する。この考え方はなかなかに面白いのだけれど、生物学の領域で議論出来ることなのか、と言われると僕にはどうも違うような気がしてしまう。少なくともミームは今のところ遺伝子→タンパク質→表現型という構造を持っていない。ドーキンスによれば、ミームという自己複製子はまだ出現したばかりで、今はちょうど原始スープの段階にあるのではないかというのだが…。
それから、”人間だけがミームを持つ”というドーキンスの物言いには僕はどうしても引っかかる。ドーキンスがどんな理由でこういう書き方をしたのかわからないけれど、文化を受け入れる脳構造を持つようになった動物なら何でも良くて、大型霊長類やイルカ、鯨といった動物もミーム・マシンと考えるほうがむしろ適当なのではないだろうか。これはすごく乱暴なもの言いだけれど、たとえばイルカの集団自殺が彼らなりのミームに基づいていないとも限らないわけで。少なくとも彼らは「遊び」を知っていますよね?
ともあれ以上が「Selfish Gene」初版の内容に当たるのだが、1989年の改訂版ではさらに2章が書き足されている。12章では囚人のジレンマという理論を持ち出して、それ自体は面白そうではあるのだけれど、それがドーキンスの理論を補強しているのかどうかはどうも良くわからない。そして13章はドーキンス2作目「延長された表現型」の概要にあたり、初版の理論的不足をかなり頑張って補完しているようだが、これに関してはちゃんと単行本を読んでからまた書きたいと思う。
さて、以上が内容の僕なりの要約で、ここからはオドロキの2つ目に話になるのだが、ドーキンスはこの本を書くにあたって大量のレトリックを導入した。もちろん彼自身ははわかって書いているわけだから比喩を使う際には必ず前置きをしていて、利己的な遺伝子とはいっても遺伝子に目的があるわけでは決してない、ただ、他と比較して自らのコピーを効率よくばらまけるような構造を持ったものが結果的に多数派となったというだけなんだ、と何度も繰り返し書いてはいるのだけれど、それでも現実に誤読した人がものすごく多く、そしてむしろ誤読されることで社会現象のようなブームを引き起こしたという側面は決して否定できないだろう。
たとえば僕が高校生の時に読んだブルーバックス「利己的遺伝子とは何か」のカバーの見開きには、大きな赤字でこんなことが書かれている。
「だから、みんな、勝手なのだ!」
誰が書いたか知らないけれど、バカをいっちゃいけない、これではまるで逆である。利己的遺伝子論は決して「どうしてみんな勝手なのか」を説明する理論では無いのだ。
ただ、現実的には「だから、みんな、勝手なのだ!」というコピーはすごくキャッチーで有効だろうし、読者としても「だからみんな勝手なのか!」と納得して、「コレも利己的遺伝子が悪いのさ」とかなんとかいって女の子を口説いちゃったりするほうがあるいは全然意味があることかも知れないわけで、それに対して逐一「それは間違った解釈だ!」と科学信奉者が叫んで、はたして社会が善くなるのかどうかというのは、ちょっと考えてしまうような問題ではある。
科学啓蒙書は「誤解されてもよいからわかりやすく書く」のと「誤解のないように難しくても正確に書く」のではどちらが良いのだろうか。僕は少なくともドーキンスのこの本はいささかやりすぎのように感じてしまったけれど、(まるでわざと誤解されるように書いているかの様だ)結局は書き手(=情報の発信源)だけが責任を負えるような問題では無く、受け手側の対応にも大きく依存するということなのだろう。ともあれ、科学啓蒙のあり方の1つのケース・スタディとして”利己的遺伝子ブーム”について検討してみるのもなかなか面白いんじゃないかと思うのだが、どうでしょうnaramaru さん(笑)?
それにしてもこの本を読む限りでは、ドーキンスは動物行動学者のくせになんだか動物があまり好きではなさそうな印象があって、ひょっとしたらそのあたりが宿敵グールドのカンに触るようなところ、あるんじゃないのかなぁ…と思いついた。ドーキンスはどうにも「賢しい」というか「鋭すぎ」という印象で、好みだけで言えば僕はグールドの方が好きですね。
最後に小ネタを1つ。ドーキンスは「銀河ヒッチハイク・ガイド」のダグラス・アダムスと親交が深かったらしくて、ダグラス・アダムスも「利己的な遺伝子」を愛読していたという話を聞いたけれど、さもありなんと思う。まるで人間の自由意志を完全に否定するかのような「利己的な遺伝子」の語り口は、ダグラス・アダムスやカート・ヴォネガットのSFと共通のシニシズムを備えているように感じるからだ。ひょっとすると、だからこそ「この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい」のかもしれない。さてはドーキンスも筋金入りのSFファンか?
「利己的な遺伝子」 リチャード・ドーキンス(英) 1976(1989 改訂)
利己的な利己的遺伝子が増殖する ★★★★
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リチャード・ドーキンス 日高 敏隆 岸 由二 羽田 節子 垂水 雄二
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私の愛したSF(24) 「時計じかけのオレンジ」
http://zamuza.exblog.jp/2703067/
2006-02-08T21:18:00+09:00
2007-01-26T15:43:42+09:00
2006-02-08T21:18:51+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
(ちなみに何故映画をあまり観ないのか、自分でもよく解らないけれどたぶん親のしつけが良かった?せいでTVの画面を眺める習慣がそれほど無いのが原因じゃないかなと。2時間TVの前に座っているのがどうにも面倒な気がしてしまうのです。もちろんいったん観始めればちゃんと最後まで楽しめるのですが、観始めるまでにやる気が無くなるというか…。ただ、今年は名作とよばれる映画を積極的に観てみようかなという気持ちがあるので、映画「時計じかけのオレンジ」もそのうち必ずチェックします)
“全体主義が勝利をおさめたと思われる近未来のイギリス。15歳の不良少年アレックスは、ロシア語まじりの若者ことばを吐き散らし、仲間を引き連れて夜な夜なけんか、強盗、強姦と非道の限りを尽くしていた。あるとき遂に殺人を犯し、また仲間の裏切りもあって刑務所へと放り込まれたアレックス。二年後、施行されたばかりの”ルドビコ法”により、暴力を振るえない身体へと科学的に矯正され、社会へと投げ返された彼を待っていた運命とは…?”
この作品、初っ端からバージェスオリジナルのスラングの嵐で、「モロコにベロセットとかシンセメスクとかドレンクロムなんてベスチを入れて飲んじゃう」とか「すごくスタリーて、きたないメストだが、すごく小さいマルチックのころ、六歳ごろのことかな、ここへ来たおぼえがあるだけだ」とか、(実際にはルビがふってあるんだけど)滅茶苦茶な言葉で溢れているのだけれど、読みにくいかと言われればそうでもなく、むしろ一種独特のリズムというか勢いがあって、ストーリーの面白さと相まって僕は一気に引き込まれて読みました。
ただ、読み終えて凄く面白かった、とは思うのだけれど、じゃあこの物語が風刺小説だというならばそのテーマは何だったのか?と考えるとこれがイマイチ良くわからない。強いて言えば欲望にまかせた人間の行為と、小賢しい知恵を振りかざす人間のそれと、果たしてどちらがより醜悪だろうか?といったことかと思うけれど、バージェスがこの作品中で成し遂げたかったのは、とにかく彼が発明した若者ことばに命を吹き込むこと(=アレックスという少年を描ききること)その1点だけだったような気もする。特に作者の意向に反して削られたという最終章がこちらで読めるのだが、これを読むとそんな印象が一層強まります。
Amazon のカスタマーレビューで、これは「ライ麦畑」のような青春小説じゃないか、と書いている人がいるけれど、確かに少年の口語による一人称という形式が共通なこともあって、「時計じかけのオレンジ」を超暴力的なホールデン少年の物語として読むのは、少なくとも僕には非常にしっくり来ました。ともあれこの作品はほんとハラショーなんで、未読であればぜひ一読をすすめます、兄弟よ。
「時計じかけのオレンジ」 アントニイ・バージェス(英) 1962
“よう、これからどうする?” ★★★★☆
時計じかけのオレンジposted with amazlet on 07.01.26
アントニイ・バージェス 乾 信一郎 Anthony Burgess
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私の愛したSF(23) 「鼠と竜のゲーム」
http://zamuza.exblog.jp/2584416/
2006-01-26T13:30:00+09:00
2007-01-26T15:44:37+09:00
2006-01-26T13:30:18+09:00
k_g_zamuza
SF的生活
コードウェイナー・スミス、本名ポール・ラインバーガー。1913年生。父親がかの孫文の法律顧問であった縁で、孫文その人から「林白楽」という中国名を貰っている。成長期に各国を渡り歩き、日本や中国の文化にも造詣が深い。ジョンズ・ホプキンズ大学教授として政治学を教え、その一方で軍人でもあり、第2次大戦時には中国で情報部員として活動し、その経験を「心理戦争」という専門的な本にまとめた。その他多くの筆名による著作多数。詳細はウィキペディアに丁寧に書いてあったのでそちらでどうぞ。
さて、「鼠と竜のゲーム」は「人類補完機構シリーズ」(どこかで聞いたような名前だが、もちろんこちらが本家)と呼ばれるスミスの一連のSF作品群の最初のものにあたる短編集で、シリーズは以下長編「ノーストリリア」、短編集「シェイヨルという名の星」、「第81Q戦争」と続く。各作品はおよそ1万5千年という長大な宇宙史の断片的スケッチとして描かれており、読者はスミスの巨大な宇宙のほんの一部を垣間見ることしか許されないのだが、そのイメージのユニークさは全く尋常ではない。尋常ではないけれど、その世界はスミスの卓越した筆により、たしかに実在するとしか思えない重みを持って読者を圧倒する。いつものように収録された8篇から特に気に入った4篇についてコメントを書きます。
「鼠と竜のゲーム」
これぞまさしくキング・オブ・猫SF。(にゃんだそれは?)読んだ後は猫しか愛せなくなる危険性があるので要注意。しかし決して単なる猫萌えSFに終わらないあたり、天才だなこの人としみじみ思う。
「スズダル中佐の犯罪と栄光」
<猫の国>なんていうアイデアはほとんどおとぎ話のよう、時間歪曲ネタの扱いもいかにもイージーだが、あるいはそれも計算ずくなのかもしれない。”ここには真実はかけらもない”のだから。
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」
サンタクララ薬という不老長寿薬の製造により、銀河系一裕福な惑星オールド・ノース・オーストラリア(ノーストリリア)。その鉄壁の防御機構がママ・ヒットンのかわゆいキットンたち。あまりにも”かわゆすぎて”精神崩壊します。
「アルファ・ラルファ大通り」
ここに描かれた<人類の再発見>のイメージときたらどうだ。「風の谷のナウシカ」だってかなわないんじゃないか。シリーズ最大のヒロインにしてSF界一の萌えキャラ(笑)猫娘ク・メルも登場する、まごうことなき傑作!
椎名誠がダン・シモンズ「ハイペリオン」を評して、ひとりの人間がこんなすごい世界を考えることが出来るということに驚く、というようなことを言っていたと思う。僕は実は「ハイペリオン」は積読状態なのだけれど、全く同じ言葉をコードウェイナー・スミスに捧げたい。ミャオウ!
「鼠と竜のゲーム」 コードウェイナー・スミス(米) 1950-1961 (1975 に短編集編纂)
博士の愛したSF ★★★★
鼠と竜のゲーム―人類補完機構posted with amazlet on 07.01.26
コードウェイナー・スミス 伊藤 典夫 浅倉 久志
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